無題

小言

不惑

明日で40歳だ。初老であり、不惑である。

医者になってまもない時期に悪性腫瘍で受け持った40歳ぐらいの患者から

30代は早いよ、本当にあっという間だよ。と言われたのを今でも覚えている。

確かにその通りだった。

もう30代もあと数時間である。

40代の自分に福田恆存から借りてきた言葉を送りたい。

 

思うに私たちはなにか行動を起こすばあい、「将来」ということに、そして「幸福」ということに、

あまりにこだわりすぎるようです。一口で言えば、今日より明日は「よりよき生活」をということにばかり、心を用いすぎるのです。その結果、私たちは「よりよき生活」を失い、幸福に見はなされてしまったのではないでしょうか。

それなら、ここにもう一つ別な生きかたもあったのだということを憶い起して見てはどうか。

というのは将来、幸福になるかどうかわからない、また「よりよき生活」が訪れるかどうかわからない。

が、自分はこうしたいし、こういう流儀できてきたのだから、この道を採るーーそういう生き方があるはずです。

いわば自分の生活や行動に筋道たて用途し、そのために過ちを犯しても、「不幸」になっても、それはやむをえぬということです。そういう生き方は、私たちの親の世代までには、どんな平凡人のうちにも、わずかながら残っておりました。この自分の流儀と自分の欲望とが、人々に自信を与えていたのです。「将来の幸福」などということばかり考えていたのでは、いたずらにうろうろするだけで、どうしていいかわからなくなるでしょう。たまたま、そうして得られた「幸福」では心の底にひそむ不安の念に、絶えずおびやかされつづけねばなりますまい。それは「幸福」ではなく、「快楽」にすぎません。

『私の幸福論』

Behind the mask

先日は内科学会地方会があった。

今回はオンラインでの開催となり、自宅のテレビで色々な発表を聞くことができ、時代の変化を感じた。

そこで印象深かったのは3割ぐらいの演者がマスクをしながら口演したことだ。

別に演者の傍には人がいないのでマスクは不要なはずだ。

顔を隠したいのではないかと感じた。

 

屋内におけるマスクの呼吸器感染症の予防効果における証拠は蓄積されており、ここで蝶々することはしない。が、マスクが感染予防という用途を超えて文字通り、顔をマスク(隠す)するために使われている気がする。

 

外を歩いていてもみんなマスクをしている。

一人で犬の散歩をしている人、自転車に乗っている人、散歩をする老夫婦、親とマンションの前で遊ぶ子供、行き交う人はみんなマスクをしている。

屋外でも常にマスクをつけるべきだと、一体いつ誰が義務付けただろうか。

そして、それを推奨する科学的根拠はあるのだろうか。

www.bmj.com

 

屋外のマスクは、人混みや大規模イベント以外(=他者と2メートル以上の物理的間隔をとれない条件)では必要性は低いと考えている。

CDCも、屋外でのマスク着用は一般的には必要ではないと言っている

www.cdc.gov

 

私はワクチンを3回接種済みで、CDCの推奨どおり、屋外で人が傍にいない場所では基本的にマスクをしない。

 

私が興味を持っているのは、自家用車内でのマスク(車マスク)である。

私は自転車通勤者であり、2km近い距離を運転し、途中で渋滞が好発する道路を通るが、そこで多くの車に行き交う。多くは出勤や送り迎えの途中と思われるが、多くの人が車内でマスクをしている。

 コロナ陽性者数と車マスク率の相関を検討したら面白いと思っている。県内で昨年11月ごろ感染者がほとんどゼロに近い時にも、この車マスクの習慣は綿々と続いていたので、おそらく相関はないものと推測する。

 

先日、契約している駐車場の場所に見知らぬ車が止まっていた。黒いマスクをした女が運転席に座ってスマホをずっと見ていた。色々な迷惑行為もマスクをつけていれば、気兼ねなく行えるため、重宝なものである。

 

いまや素顔は当たり前のものではなくなり、特別なものになった。

「人は見られると美しくなる」という言葉をどこかで聞いた覚えがあるが、この言葉にはいくつかの真理が宿っている様に思う。では、まずはお前がここに己の顔を晒せって?御免蒙る。

 

いつの間にか根付いた「どこでもマスク」の文化はいつまで続くのだろう。吾が国において、マスクの「オフ」については殆どの論じられていないことを残念に思う。時には電話やメールやスマホから解放される様に、屋外ぐらいマスクから解放されて、新鮮な空気を吸うと良いのではないかと日々思っている。

ロハはヒトをダメにする

1年前から看護学校の授業を担当している。90分の講義を2回行う。

毎回授業前になると、別室に連れて来られて、これから授業をやるということで書類にサインをする。授業の準備のためにはかなりの時間を費やしている。

 

内分泌疾患についての話が担当なので、ホメオスターシスや生理学の話をするために、ウォルターキャノンの「体の知恵」を読んだり、英語の分厚い教科書を読み込んだ上でスライドを作る。こちらが、講義内容を面白いと思わないと、相手も面白いと思わないだろう。

さんざん準備を重ねて、スライド60枚を超える資料も作って、実際に講義を行うと、悲しいぐらい反応に乏しい。一番前の席の生徒が私の話を聞いてうなづいてくれるのが救いだ。

質問してもシーンとして何一つ返ってこない。名簿を見て、名指しして質問しても、わからないという。去年も同じだったので、こんなもんかと思った。

 

授業が終わった後に、ある生徒に話しかけてみた。みんな教科書はどうしているのか。

みんな教科書が電子化しており、タブレットを持参して、机においたタブレットを見ながら聞いている。これには驚いた。

教科書を電子化しちゃって大丈夫かと思った。個人的な経験だと、電子ドキュメントは本と比べて格段に頭に入ってこない。

試験問題も作る。責任重大なので練りに練って作る。国家試験問題も参考にしながら作る。

 

明後日に2回目の講義があるので、資料を本日までに作り上げた。

電話で取りに来るように伝えるが、取りに行きますと言ったきり取りに来ない。催促の電話をしたら、ようやく取りに来た。不思議なことに相手は名乗らない。これまでずっと聞けずにいたが、思い切って聞いてみた、この講義っていくらぐらいお金出るんですか?

「ここの病院の先生だと、お金は出ません。すみません」以上。

 

確かに講義を担当すること自体が勉強になるとは思うので、キザな言い方をすれば、それが一番の報酬と言えるかもしれない。が、ロボット相手に話しているみたいで、手応えはほぼなく、みんなマスクをしていて、下を向いていて、表情もわかりにくい。終わった後に疲れて、もう来年はやめようという気持ちになる。

医学生相手ならば私はロハでも良いと思うが、が、やはり親しくもない相手(外部の人間)にロハで仕事を頼むのはダメだと思う。せめてロハであることを事前に相手に伝えるべきだと思う。1000円でも2000円でも良いから払うべきだと思う。

 

巨人症(gigantism)という病気がある。イメージしてもらうために、その病気の有名人の例として、ジャイアント馬場の写真を出して彼がどういう症状が出たのかを解説した上で、この方は誰でしょう。と懸賞クイズを出してみた。で、答えてくれた人にはジャイアントカプリコをあげようと、粋な景品を用意しておいた。が、ヒントをあげても誰も答えようとすらしてくれなかった。そして驚いたことに、誰もジャイアント馬場を知らなかった。

ジャイアントカプリコは妻にあげた。

主治医の役割

ある日の午後5時、当直が開始と同時にPHSがなった。

相手は若手の医師からで、入院中の重症患者について申し送りだという。

COVID-19の重症肺炎で入院中の高齢患者である。

酸素濃度がかなり低く、鼻から高流量の酸素吸入を行なっている。

申し送りの時点で、患者は人工呼吸器はつけて欲しくはないという意思を表示している。

管や機械に繋がれたまま死ぬのだけは避けたいと言っているそうだ。

もしも治る見込みが高く、元どおりの生活が保証されるのであれば、人工呼吸器のような侵襲を伴う治療でも受けることは吝かではないといっているらしい。

 

その主治医としては、その患者の呼吸状態が悪化した場合、本人と家族に人工呼吸器の治療を受けるかどうかの意向をもう一度確認し、患者や家族が治療を希望したら、気管チューブを挿入して人工呼吸器管理をして欲しいと。

色々と文句を言った上で、自分ならそういうことは絶対にやらないけど、とりあえず申し送りどおり実行すると伝えた。

 

患者が状態が悪化した時にまともな判断能力はない。急変時に患者とゆっくり話している時間などない。

聞き方や、その時の気分次第でやっぱり少しでも望みがあるならお願いしたいとなるに決まっている。

高齢のCOVID-19の患者に人工呼吸器が必要になったら少なくとも3~4割は死ぬだろう。助かった後も、歩けなくなったり、飲み込む力が低下したり、認知機能の低下など様々な機能障害に悩まされるだろう。自宅で介護ができなくなり、病院からそのまま施設へ入所ということもある。

だから、管に繋がれたまま死ぬことが受け入れられない人に人工呼吸をやるべきではない。私ならそう考える。

 

患者のためになるなら、やる。

患者のためにならないなら、やらない。

やるときは、徹底的にやる。

やらないと決めたなら、やらない。

 

患者の予後をどれほどと見積もるのか、患者への治療のゴールはどこに設定するか。ゴール達成のために患者に何を提供できるのか。そういうことを考えずに、患者、家族の希望が最上位におかれる。患者が嫌がっていても、家族の意向が優先されるなんていうこともある。

 

血圧が下がった場合に患者に血圧を上げる薬剤(昇圧剤)を使うかを聞く医者は少なくない(そんなことわかるわけないだろう)。ガンの末期で先の短い患者やその家族、急変時に心臓マッサージは希望するかと聞く医者もいる(そして同意書の形でサインをさせる施設もあるらしい)。なるほど、患者の自己決定権の尊重はしているのだろう。しかし、本音はトラブルがあった時に言質を取るという意味でしかない。

そして患者や家族が、今は決められないという時に「それでは家族内で話し合って考えておいてください。返事があるまでは出来る限りの蘇生行為を行います」と冷たく言い放つ。

 

受け持ち患者の急変時に救命行為を、蘇生行為を行うかどうかは主治医が責任を持って決めるべきである。やるべきではないと考えた場合、患者や家族には「やらないほうが良いと判断したのでやらない」とあらかじめ伝えておけばよい。というのが結論である。

 

実際、医療には不確実性がつきもので、入院時はもうダメだと思ったがやってみたら治療が効いて助かった。ということも経験するので「やってみなけりゃわからない」というところもある。だからさっきの主治医が悩む気持ちもわかる。ただ、それを当直医にやらせるか。

 

働き方改革だかなんだか知らないが、さっさと私に申し送って帰ってしまった。

選択的夫婦別姓について

 ある日の午後、僕と一緒にペアで入院患者を受け持っている女医さん(独身)が、スマートフォンをみて憤慨していた。

 最高裁の判決で選択的夫婦別姓違憲ではないという判断が出た日である。「合憲ってどういうこと?おかしいでしょ!」真面目でテキパキとして患者さんにも優しい女医さんで、こんなに怒っているところは見たことがない。恐る恐る僕の感想を述べた。

「僕はあまり関心がないという立場なんだが、これまで長いこと続いてきたことには、それなりに意味があるんじゃないかな。これまで通り夫婦は同性で良いと思う。」と言った。

女医さんは顔を赤くして、ため息をついて、女性が苗字を変えることがどれほど大変かわかっていますか?あの手続きの大変さがわかっていない。と言われてしまいました。ちょっと気まずくなって、「はぁ。ところであの〇〇先生(男性)は実はね、奥さんの苗字に変えたんだよ」と言ったら、その女医さんは「へえ、そうなんですか、OO先生はえらいですね」と感心していた。

 なぁんだ、あそこまでムキになっていた理由は、選択的夫婦別姓を希望する理由が、女の人ばかり面倒な手続きで不便な思いを強いらるのは不公平だからという風に私には感じた。今この駄文を書いていて思い出したが、彼女はセクハラとかパワハラとか、そういうハイカラな言葉をよく発した(とはいえ私は彼女を尊敬している)。

 

私は夫婦別姓に対して消極的な立場である。これまで考えたこともない。

必要性について感じないし、周囲に結婚した人で夫婦別姓を本気で求める人も見たことがないから、今ひとつ関心がない。今回初めてこんなに関心の強い人に会った。

 

ただ、ネットなどを見るとこの問題に非常に強い関心を抱いている人を見かける(ムキになっている)。そして、多くが別姓に賛成しており、夫婦同姓を強要されて苦しんでいる人が世の中にはたくさんいるらしいことが書いてある。

 

私はこんなことを想像する。例えば、法的に別姓が認められたとして、彼らの子供の姓はどうなるのか?子供の姓はどうやって決めるのか。子供の姓を決める際には、争いなく決まるのだろうか。中学生になった子供がお母さんの姓じゃいやだから、お父さんの姓にしたいと言ったらどうするのか。

 

自分が子供の頃を思い出して、もしも両親の苗字が違っていたらと想像しただけで恐ろしい。  そんなの古臭い慣習に過ぎない。慣れてしまえば、なんとも思わないよ。

と言われるかもしれない。そうかもしれないが、私の実際に育った環境は両親が同性の環境なので、違和感しかない。

 

男性の姓にならなければならないという法的な縛りはないわけだから、どちらの姓になるかを話し合って決めたら良いと思う。

 

海外ではこんなことしている国はどこにもない。夫婦同姓を法的に強制されるのは良くない。

それらも一理ある。

 

男性の姓にしなければならないというルールはなく、男女で話し合ってどちらの姓にするか決めれば良いのだから、話し合って決めれば良いと思う。そこに強い摩擦が生まれるかもしれない。が、そういう議論や摩擦をすっ飛ばして、法律のメカニズムにすべて委ねて一気に解決しようという考えは浅薄ではないか。

 

福田恆存は「私の保守主義観」という文章の中で以下のように述べている。

「保守派が合理的でないのは当然なのだ。むしろそれは合理的であつてはならぬ。保守派が進歩や改革を嫌ふのは、あるいはほんの一部分の変更をさえ億劫に思ふのは、その影響や結果に自信が持てないからだ。それに関する限かぎり、見す見す便利だと思つても、その一部を改めたため、他の部分に、あるいは全体の総計としてどういう不便を招くか見とほしがつかない体。保守派はみとほしをもつてはならない。人類の目的や歴史の方向に見とほしのもてぬことがある種の人々を保守派にするのではなかつたか。」

 

選択的夫婦別姓支持者は、ほんの一部分の変更に過ぎない。単に障害物を除去するだけだ。それのいの一体何に反対するのか?男性は苗字が変わらなくて良いからそう暢気なことを言えるのだなどと反論するだろう。

 

なるほどそうかもしれない。が、そのたかが一つの変更によって社会が、家族がどう変わってしまうのか私には見通しがもてないので私は消極的である。

We Rise なる宣言

私の地域でもコロナが本格的に増えてきてた。

また忙しくなる。

www.werise.tokyo

京都大学教授の藤井聡先生は以前から尊敬していたのだが、最近コロナに関してちょっとついていけないと感じている。

小生は表現者クライテリオンという雑誌が好きで毎月最新号が出る当日に妻に買いに行ってもらっている。良い記事に出会うことが多いのだが、コロナに関する言説は少しだけ読んで飛ばしてしまっている。

過剰に恐れるのは良くないという主張は賛同するが、過剰がいけないというのは当たり前である。過剰というのは、良くないことを指すので、論理的には良くないことは良くない、AはAであるという、トートロジーに近いと思う。

重要なのはどこからが過剰かを示すことである。

ついこないだのクライテリオンには、小林よしのり氏が出てきて、コロナなんてインフルエンザに比べたら対したことない。集団免疫を獲得せよとか、いまだに言っているのを見て大丈夫かと思った。現場で見ている立場からすると新型コロナ がインフルエンザよりも毒性が弱いという意見には賛同しかねる。

 

藤井先生が仲良くされているウイルス学者の宮沢さんも怪しげな人だが、僕の知る限りだと上記のWeRizeなるものに名を連ねている方々はかなり偏った言説をとる方である。

WeRize提言の序文がこれである。

厚生労働省は、自粛の必要性について、その科学的根拠を示すべきである。 また、新型コロナウイルスの存在を示す根拠となる科学論文を示すべきである。

とある。コロナウイルスの存在を示す根拠となる科学論文を示すべきであるはどういうことか?どうやったら存在が証明されたと納得するのか?それに続いて、

新型コロナウイルス感染症はメディアが作り出した怪物

だという。現実否認も甚だしい。

私たちは、感染予防対策としてのマスク着用の推奨を停止することを求めます

とか

私たちは、PCR検査による陽性者認定を即刻停止するよう求めます

とか、コロナ感染対策の根幹に関わることを否定しており、理解に苦しむ内容である。

なるほど、毎日朝から晩までコロナコロナの騒ぎに嫌気が指すのわかる。

外来を受診される患者さんは、必ずワクチンのことに言及し、コロナのことばかり考えて買い物以外は外出を控えていることを聞くと、本当に気の毒に思える。

なるほど過剰な自粛をしている人も少なくなく、経済に甚大な影響が出て、自殺者も増加している。

しかし、この宣言みたいに焼け鉢になって現実を疑ってかかるのは良くない。

懐疑主義も度がすぎるとただの現実否定になると思う。

これまでコロナ自粛に対して語ってきた議論はなんだったのかと思うぐらいこの共同宣言はひどいと思う。

藤井先生のファンだけに、こんな宣言に、藤井聡先生が名を連ねてしまったことを残念に思う。内容を読まずにうっかり署名してしまったのだと思うことにする。

 

日本製なくなる

抗菌薬は2019年にセファゾリンという大事な薬剤が市場から消えた。

セファゾリンの原料となる物質が、中国とイタリアの工場で起きたトラブルが原因で手に入らなくなった。ある日、急に処方できなくなったのだ。

我が国でセファゾリンは手術前の感染予防や、黄色ブドウ球菌感染症という臨床的に重要な細菌感染症の治療の第一選択薬である。仕方がないから他の効果が劣るかもしれない薬を使った。患者に大きな不利益はなかったが、セファゾリン以外にもいくつかの重要な抗菌薬が手に入らないという事態が1年続いた。

今はセファゾリンの流通が再開したが、なくてはならない抗菌薬を自分の国で作れないとは本当に情けないなと感じた。セファゾリンはそもそも我が国で開発された薬である。国による医療費削減の指針のもとでジェネリック医薬品などの導入を推進してきた。

その結果、抗菌薬の値段は崩れた。セファゾリンは販売当初は1g(1瓶)3000円だったが、薬価改定などでジェネリックセファゾリンは108円まで値下がりした。全く利益が出ない商品であり、売れば売るほど赤字が出るという。

これではメーカーも作る気を無くすというものだ。

現時点で日本ではペニシリンセフェム系抗菌薬を、原材料の輸入なしでは自国では作れない。以前は作れたが撤退してしまった。

このセファゾリン問題は大きく受け止められ、ようやく、我が国でも自前で抗菌薬を作れるようにしようという動きが出てきたところだ。

我が国は食料、エネルギー、衣類、医薬品など外国から輸入に頼っている。マスクが必要なときにマスクもすぐに作れない。防衛もアメリカ頼みである。

人間の生存に関わるものは海外頼みにしないほうが良いと思う。国家の存亡に関わる。