無題

小言

選択的夫婦別姓について

 ある日の午後、僕と一緒にペアで入院患者を受け持っている女医さん(独身)が、スマートフォンをみて憤慨していた。

 最高裁の判決で選択的夫婦別姓違憲ではないという判断が出た日である。「合憲ってどういうこと?おかしいでしょ!」真面目でテキパキとして患者さんにも優しい女医さんで、こんなに怒っているところは見たことがない。恐る恐る僕の感想を述べた。

「僕はあまり関心がないという立場なんだが、これまで長いこと続いてきたことには、それなりに意味があるんじゃないかな。これまで通り夫婦は同性で良いと思う。」と言った。

女医さんは顔を赤くして、ため息をついて、女性が苗字を変えることがどれほど大変かわかっていますか?あの手続きの大変さがわかっていない。と言われてしまいました。ちょっと気まずくなって、「はぁ。ところであの〇〇先生(男性)は実はね、奥さんの苗字に変えたんだよ」と言ったら、その女医さんは「へえ、そうなんですか、OO先生はえらいですね」と感心していた。

 なぁんだ、あそこまでムキになっていた理由は、選択的夫婦別姓を希望する理由が、女の人ばかり面倒な手続きで不便な思いを強いらるのは不公平だからという風に私には感じた。今この駄文を書いていて思い出したが、彼女はセクハラとかパワハラとか、そういうハイカラな言葉をよく発した(とはいえ私は彼女を尊敬している)。

 

私は夫婦別姓に対して消極的な立場である。これまで考えたこともない。

必要性について感じないし、周囲に結婚した人で夫婦別姓を本気で求める人も見たことがないから、今ひとつ関心がない。今回初めてこんなに関心の強い人に会った。

 

ただ、ネットなどを見るとこの問題に非常に強い関心を抱いている人を見かける(ムキになっている)。そして、多くが別姓に賛成しており、夫婦同姓を強要されて苦しんでいる人が世の中にはたくさんいるらしいことが書いてある。

 

私はこんなことを想像する。例えば、法的に別姓が認められたとして、彼らの子供の姓はどうなるのか?子供の姓はどうやって決めるのか。子供の姓を決める際には、争いなく決まるのだろうか。中学生になった子供がお母さんの姓じゃいやだから、お父さんの姓にしたいと言ったらどうするのか。

 

自分が子供の頃を思い出して、もしも両親の苗字が違っていたらと想像しただけで恐ろしい。  そんなの古臭い慣習に過ぎない。慣れてしまえば、なんとも思わないよ。

と言われるかもしれない。そうかもしれないが、私の実際に育った環境は両親が同性の環境なので、違和感しかない。

 

男性の姓にならなければならないという法的な縛りはないわけだから、どちらの姓になるかを話し合って決めたら良いと思う。

 

海外ではこんなことしている国はどこにもない。夫婦同姓を法的に強制されるのは良くない。

それらも一理ある。

 

男性の姓にしなければならないというルールはなく、男女で話し合ってどちらの姓にするか決めれば良いのだから、話し合って決めれば良いと思う。そこに強い摩擦が生まれるかもしれない。が、そういう議論や摩擦をすっ飛ばして、法律のメカニズムにすべて委ねて一気に解決しようという考えは浅薄ではないか。

 

福田恆存は「私の保守主義観」という文章の中で以下のように述べている。

「保守派が合理的でないのは当然なのだ。むしろそれは合理的であつてはならぬ。保守派が進歩や改革を嫌ふのは、あるいはほんの一部分の変更をさえ億劫に思ふのは、その影響や結果に自信が持てないからだ。それに関する限かぎり、見す見す便利だと思つても、その一部を改めたため、他の部分に、あるいは全体の総計としてどういう不便を招くか見とほしがつかない体。保守派はみとほしをもつてはならない。人類の目的や歴史の方向に見とほしのもてぬことがある種の人々を保守派にするのではなかつたか。」

 

選択的夫婦別姓支持者は、ほんの一部分の変更に過ぎない。単に障害物を除去するだけだ。それのいの一体何に反対するのか?男性は苗字が変わらなくて良いからそう暢気なことを言えるのだなどと反論するだろう。

 

なるほどそうかもしれない。が、そのたかが一つの変更によって社会が、家族がどう変わってしまうのか私には見通しがもてないので私は消極的である。