無題

小言

人間的自然現象

昭和8年3月3日に三陸沖で大津波が襲来した(明治の大津波はその37年前に起きている)ことを受けて寺田寅彦は「津波と人間」という文章を発表している。

以下に長くなるが引用する。


 同じような現象は、歴史に残っているだけでも、過去において何遍となく繰返されている。歴史に記録されていないものがおそらくそれ以上に多数にあったであろうと思われる。現在の地震学上から判断される限り、同じ事は未来においても何度となく繰返されるであろうということである。
 こんなに度々繰返される自然現象ならば、当該地方の住民は、とうの昔に何かしら相当な対策を考えてこれに備え、災害を未然に防ぐことが出来ていてもよさそうに思われる。これは、この際誰しもそう思うことであろうが、それが実際はなかなかそうならないというのがこの人間界の人間的自然現象であるように見える。

学者の立場からは通例次のように云われるらしい。「この地方に数年あるいは数十年ごとに津浪の起るのは既定の事実である。それだのにこれに備うる事もせず、また強い地震の後には津浪の来る恐れがあるというくらいの見やすい道理もわきまえずに、うかうかしているというのはそもそも不用意千万なことである。」
 しかしまた、罹災者りさいしゃの側に云わせれば、また次のような申し分がある。「それほど分かっている事なら、何故津浪の前に間に合うように警告を与えてくれないのか。正確な時日に予報出来ないまでも、もうそろそろ危ないと思ったら、もう少し前にそう云ってくれてもいいではないか、今まで黙っていて、災害のあった後に急にそんなことを云うのはひどい。」
 すると、学者の方では「それはもう十年も二十年も前にとうに警告を与えてあるのに、それに注意しないからいけない」という。するとまた、罹災民は「二十年も前のことなどこのせち辛い世の中でとても覚えてはいられない」という。これはどちらの云い分にも道理がある。つまり、これが人間界の「現象」なのである。

津波と人間 寺田寅彦 青空文庫より引用)

 

まさにその後も、東日本大震災でこの言葉通りのことが繰り返されており、全くその通りだと感心する。

 

 

津波だけでなく、コロナにおいても似ている点が多いと感じる。

ホームパーティや会食をするなと言われてもしたくなるのが人情なのである。人間的自然現象なのである。

津波もコロナも第1波とか、波を使うのは偶然の一致か。異なる点は、津波は30年ぐらいの間隔があり忘れた頃にやって来たが、コロナは毎日毎日報道などで人々の注意を引いているということだ。

 

国や行政がコロナ対策を行うのであれば「人間的自然現象」を前提とした上で対応すべきだと思う。まずは、あまり意味のないなんちゃって対策はやめて、本当に有効な対策だけを残すべきだと思う。

環境の消毒、店に入る時の検温、入り口に設置されてあるサーモグラフィ、釣銭を手渡しではなく、トレイに置く。

なんの役に立つんだろう

もの(テーブルなど)を媒介にした感染はほとんど起きないだろうと考えられている。

www.nature.com

 

飲食業ならまだしも、デパートや電気屋の店員さんがマスクだけでなく、鉄仮面みたいなフェイスシールドをするのもやりすぎである。そもそも気味が悪い。

会話するときはマスクをつけて1〜2m程度の物理的な距離をとる、家族以外での大人数での食事を避ける。

流行していない時であれば、日流行地域の住民同士であれば、複数の人が食事をすることは問題ないはずである。

人と人の距離が1〜2mくらいあれば外(屋外)でマスクを外して歩いたってなんら問題ないはずだ。外出を控えようと専門家はいうが、妻や友人と外を歩くぐらい問題ないだろう。

 

これくらいは大丈夫ですよ。という情報があまりになさすぎる。あれもだめ、これもだめという禁止事項ばっかり。ウイルスが出て来た当初はわからないことだらけであったので仕方がない。が、今はいくつかわかって来た。少なくとも「ものを介した感染」は非常にリスクが低いということがわかって来たので、環境の消毒は不要である。これまで通り、食前に普通に手を洗えば良いだけだ。

 

コロナ対策というが、相手は大勢の人間である。大衆である。短期間であれば我慢はできるが、どこかで反動がくる。というよりもすでに反動が来ている。これも人間的自然現象である。

 

corona.go.jp

これではだめだ。ごちゃごちゃしている。何がスマートライフだ。

やるべきことをもっと単純に、わかりやすくすべきと思う。

 

以下の表は昨年9月に英国の医学雑誌(BMJ)に掲載されたものだが、ウイルスの伝達の起きやすさが層別化されている。大変わかりやすいと思う。これくらいはリスクが低いので心配ないという情報がもっと発信されてほしい。

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www.bmj.com



 

医者と働き方改革

誠に残念に思うことは若手の内科医から患者の主治医という意識がなくなったことである。

休みは休み。

自分の患者という意識がないから、受け持ち患者が急変しても知らないし、看取って貰った時に他の医者に対応してもらっても礼も言わない。週末に受け持ち患者の採血をオーダーしておいて、診察と採血の確認をお願いしますと院内メールが送られて来る。

これまでこのようなことは経験したことがなかった。

 

僕が医者になったばかりの時は、休みというものは有ってなかった。

月月火水木金金」という歌があるが、月月火水木土土だった。土曜日は午前中のみ。夜中に患者が死ぬと電話で呼ばれてお看取りに行く。それで何にも不満もなかった。休みの日はゆっくりと病棟の患者を診察ができた。

 

が、その文化もここ5−6年でたえて無くなった。休みの日は病棟は看護師さんだけが忙しく動いている。

 

3年目の医者とペアで患者を見ているのだが、私(指導医)は土日のどちらかは必ず回診する。患者が重症であったり薬剤調整が必要な場合は土日とも行く。が、3年目の方はこない。私が来ていることを知っていてもこない。

これが「働き方改革」の実態である。

「私たちの病院はオンオフがはっきりしていて働きやすい」とかいって、若手に病院に来てもらう際にアピールする材料にしている。

情けないったらありゃしない。

土日休みの病院があったら週7日のうち2日休み、祝日があれば3日休むことになる。

 

彼らがいうには「労働者として休む権利がある」という。そして「業務内容も適切に果たしている」というだろう。

確かにそうだろう。みんな真面目に勉強し、真面目に患者を見て、頑張っていると思う。業務時間内に限っては。

 

以前私が勤務していた病院は3人1チームで患者を担当していたので休みの日は必ず一人出るという当番制で患者の診察は義務だった(ただしロハなのでブラック病院という噂が立っていた)。それならば休みの日は堂々と休んだら良い。

そういう安全対策をせずに土日祝日を休みにして当直医に任せきりにするのは危ないと思う。私はこの体制を提案したことがあるが、あっさりと却下された。

休める時には休むという自由はあった方が良い。

ずっと休みなく働けと言われたら私も権利を主張し反発する。

 

が、2日3日と休む時少しぐらいは彼らの心は痛まないのだろうかと思う。

 入院中の患者を放ったのだから休むことに後ろめたさぐらい感じて欲しい。僕は1日休んだ次の朝に入院患者さんに会う時に後ろめたい気分を感じる。

働き方改革」「オンオフ」という言葉はこの後ろめたさを排除し、堂々と休むことを可能にしたように思う。

 

まったく世の中は便利な方向へ進むものだと感じる。それを進歩と呼んで私たちは疑わない。

そして私たちは、誰かの便利は他の誰かの犠牲のもとに成り立っているという想像力すら持たない生き物である。

効率的=合理的ではない

今回コロナが流行って思うことがある。

「黒字」病院が以外にもろいのではないかということだ。

当院は赤字病院である。医者の便所は和式である。病床利用率も7割よくて8割ぐらいで入院させたいときに入院できなかった経験が一度もない。

これまでの病院だと、入院させたくても満床で、小さな病院へ転院させなければならないということがあった。

我々内科も救急車や紹介をできるだけ受け入れ、頑張っているが、病床が埋まることは滅多にない。

経営効率が求められ、経営母体の本部からは当院は病床利用率が低いことが特に減点対象らしく、落第生としてマークされているらしい。

 

経営側からは、一つ病棟を潰すかどうかがよく話題になっていた。

僕はそれには反対だった。反対の理由は、これまで長く続いた病棟を潰すと、看護師の解雇が起きる事、一度潰したものは元には戻らないというのが理由だ。

 

そんな中でコロナがやってきた。

最初はダイアモンドプリンセスの受け入れに始まり、首都圏に行って感染してくる患者、キャバクラやホストクラブの従業員、アジア系外国人、市中でのクラスター、病院内クラスターなど次々とコロナを受け入れた。

市内には600床クラスで、いつも満床に近く、バンバン受け入れる地域の基幹病院があるが、コロナ患者はICU管理の必要な重症者以外は殆ど受け入れなかった。

もう一つ、(不要と思われる)カテーテルや整形外科手術、検診をバンバンやって儲かっている怪しい病院があるが、そこも受け入れなかった。

 

その基幹病院でコロナのクラスターが起きた。自分の病院では見ることができず、患者やスタッフが当院に入院してくる始末だ。

確かにその基幹病院はいつも頑張って患者を受け入れて忙しいのだ。救急外来のベッドはいつも患者でいっぱいで、「断らない救急」を実践しており、医師・看護師は黙々と働いており、殺伐とした空気が流れている。

忙しすぎて受け入れたくても受け入れる余力がないのだ。

 

その病院内のコロナに対する対処も首をかしげるものだった。

クラスターの起きた病棟を閉鎖し、濃厚接触者を隔離し、看護師を一斉に休ませるかと思いきや、「PCR陰性」を根拠に看護師を働かせていた。そして濃厚接触者も「PCR陰性」を確認後に帰宅させた。

その看護師たちはどうなったか、最初は陰性だったが後から症状が出てきてPCRが陽性になった。ずっと個室に入院していた患者もコロナに感染した。帰宅した「PCR陰性」の患者も帰宅して発病し、家族に感染したという例もあった。

このえげつない対応は幹部を交えた会議で決まったという。

いつもギリギリのマンパワーで病棟をフル回転させてきたため起きたのではないかと思う。

 

これまで僕が働いてきた病院は赤字経営ということはなかったのだが、この病院は赤字だった(コロナのあとのことは知らない)。つまり看護師や医者にはまだ余力があるということになる。その結果、一つの病棟をコロナ専門病棟にするということができた。

そして、潰されそうだった病棟の看護師は忙しく働いている。

 

我が国では医療費抑制の観点から、病院経営の効率化をはかるという流れになってきている。が、おそらくこの流れで病院の統廃合を進めると、いざという時、こういう危機に対処ができない可能性がある。そもそも診療報酬は低めに設定されており、病院はよほど効率がよくないと儲からないようになっている。

そこで儲けるためには悪を働く必要がある。その悪は、研修を名目に人件費を削ったり、一人の医療者が能力以上にたくさんの患者受け持ったり、必要のない治療、入院をさせたりすることにつながる。

 

白状すると、僕は以前だったら、「赤字経営ならば病棟を一個潰す」側にいたと思う。いわゆる緊縮財政の考え方である。が、いつしか経営なんて糞食らえと思うようになった。勤務医の身勝手な考えである。

緊縮の考え方は無駄を排するという合理的な仮面を被っているが、他人を切り捨てるのもやむなしという冷たさを持っている。

 

効率的=合理的ではない。

その怒りは本当の怒りか?

正義の主張は犯罪であると心得べし

福田恆存はどこかでいっていたが、まさにその通りだと思う。

正義には相手に対する怒り、ないし暴力がある。

正当化された暴力が正義に他ならない。

森さんの女性蔑視発言というのがあるが、あれはそんなに真面目に取り上げるべきものなのか?

発言というのは何を語るかという内容だけが、切り取られるが、どういう場所で、どういう雰囲気で、どういう相手に、どういう態度で語ったか、なども内容以上に大事だと思う。

 

政治家という立場なのだから、いつ切り取られても良いように発言しなければならないのだと言われたら、そうかもしれない。

 

何か重大な決断を発表したなどであれば別だがいちいち発言を切り取って、「森さんがこんな事をいっているよ、みんなさあ怒れ!」

というと果たしてみんな怒る。

もし森さんがこの後、誰からに刺されたりして死んでしまったら、今度はどんな反応をするのだろう。

 

言論の世界に森さんを擁護する言論の自由というものはない。擁護しようなら袋たたき、村八分にされる。

 

多くは、今回の事を「女性蔑視発言」と大きく報道している。小さい事を大きくしてしまったのではないかと思う。マスコミというのは小さな事を大きく報道するのが仕事で、本当に重要な大きな事を小さくわからないように報道する。

 

そもそも自分にほとんど関係のないことに対してよく怒れると思う。私は一部の当事者をのぞいて本当に怒ってはいないと思う。いや、自分は怒っていると自己暗示にかかっていると思う。

 

そういうあなたは森さんの発言をどう思うか?と問われても困る。

全く興味がないし、前述のように、どういうコンテクストでどういう態度で森さんがああいう発言をしたかわからないし、切り取られた例の発言「女性がたくさん入っている会議は時間がかかる」も自分はそう感じない。女性の箇所を男性に差し替えたとしても、よくわからないと答える他ない。

 

「よくわからない」と答える正直なコメンテーターはいないのか。

 

正義面をして、聖火ランナーやオリンピックのボランティアを辞退したり、抗議の電話やメールをする人が殺到しているという。そして辞退したことを誇ってツイッターなどに報告している。片腹痛い。

 

正義を売り物にするのだけはやめて欲しい。

安全な場所で叫ぶ、胡散臭い正義を「茶の間の正義」と山本夏彦は言った。

いまだ元凶は忘年会

またコロナの老人が入院してきた。

典型的な心不全の症状で救急搬送されて心不全の診断で、念のためとったコロナのPCRが陽性だった。

後から詳しく聴取すると、同居の孫が忘年会に行った。その後に孫が感冒様症状が出て、高齢者の患者が一時的に発熱し感冒様症状が出現した。そして1月の終わり頃に心不全の症状を呈して、念のための検査で引っかかった。忘年会から1ヶ月近くたつが未だにこういうことがある。

元凶は忘年会である。

感染から発病までの潜伏期間のながさ、単なる感冒様症状しか出ない人も多く、コロナを引っ掛ける為には入院時にはとりあえずコロナを調べておくという風にしている。

本当に厄介な感染症である。

そしてあれだけ危険性が言われてながら忘年会に出かけた若者を憎む。そういう人に聞くとマスクはしていた、席はちょっと離していたとか色々言い訳するが、それでも感染するものは感染するのである。

 

忘年会や年始の会食の結果、多くの命が失われたという事実はあまり新聞などでは見ないがなぜだろうか。

年末年始クラスター

私の地域では今コロナ感染がものすごいことになっている。

 

その原因としてもっとも多いのは忘年会や大晦日や正月に実家でみんなで集まってご飯を食べたことだ。

 

だいたいウイルス感染から発症(最初は微熱・倦怠感・咽頭痛・鼻水など感冒の症状)までの潜伏期間の中央値が5日(四分位範囲が2-7日)で、呼吸困難が出てくるのが7〜10日であるので12月31日〜1月3日にみんなで集まりいずれかの日に感染した(Day=0)とすると、感冒様症状が出てくるのが1月5日〜1月8日(四分位範囲と合わせると1月2日〜1月10日)

肺炎による呼吸困難で病院を受診してくるのが、1月12日〜18日ごろ(先ほどの四分位範囲と合わせると1月9日〜1月20日)となる。

自宅生活している高齢者のコロナはこのパターンでの感染が多い。

晦日や正月ぐらいはという気持ちはわからなくもない。

孫が年末に来たいといっているのを断ることは出来なかったのだろう。ただ、忘年会をやる気持ちは正直わからない。

いずれにせよ、病院としては迷惑な話である。

今年を振り返る

コロナが明るみにしたものは我々医者同士の協力の悪さだ。

仲が悪く喧嘩するならまだ良い。摩擦すら生まれない。

コロナ患者はどんどん増えて来ており、もうそこまで来ている

 

腹痛で受診しただけなのにコロナ陽性

予定手術前にはPCR陰性だったのに、手術後に発熱してもう一回PCRとったらコロナ陽性

入院した患者の家族が後からコロナと判明

 

今の所アウトオブコントロールだ。

病院は受け入れのマックスに近い。

 

散々コロナの突然死のニュース流すものだから

コロナで自宅療養をしている若者がパニックになって過換気を起こして救急車を呼ぶというパターンが増えている。

 

それにしても病棟の看護師さんは文句も言わずによく働いてくれている。健気である。

そんな看護師さんからお疲れ様のチョコレートをもらった。

今年は病院からあけましておめでとう。